• 2010.10.01

    イノベーションを起こすために

    最近、あちこちで「イノベーションを起こさなければならない」とか、「イノベーションが世界の課題解決のために必要だ」という意見をよく聞く。

    全くその通りだと思う。

    今、世界の課題と言われるものは、人類がかつて経験したことのない大変に困難なものばかりだ。

    もちろん、昔の課題が楽だったわけじゃない。

    ペスト(天然痘)が流行した中世のヨーロッパは、文明存亡の危機にすら見舞われた。
    (病原菌に対しては、必ず抗体を持っている人たちが存在するそうで、人類そのものがそれで死滅するということはないようだ。)

    それを思えば、今の課題はそこまで深刻ではないとすら言える気もする。

    だが、真綿を締めるように襲いくる気候変動はどうだろう?
    人類そのものが地球に住めなくなるとしたら、その危機はペストどころの話ではない。

    ウォーターフットプリントを考えれば、このままだと人類は数十億人の単位で飢えて死ぬことになりそうだし、世界中で高齢化が進むと経済だって破綻してしまう。

    つまり、人類がDNAや文明の存亡を賭けた危機的状況にあり、それを打開していく術を見つけ出していかなければならないのは自明すぎるくらい自明だ。

    とすると、次にすべきは、その「「イノベーション」というものをどうやって起こすのか?

    ということになる。

    これは言い切っていいと思うが、イノベーションなんてそんな簡単に起こせるものじゃない。
    課題にもレベルがあるので、一概には言えないが、それを生み出すために必要なエネルギーは途方もないことのほうが多い。

    でも、やらなきゃいけない。

    ということで、社会課題の解決に向けたイノベーションを起こす一つの手法の案として、最近、気づいたのは、

    異業種や異質な人たちをソーシャル領域に巻き込む

    ということ。

    そんなの当たり前だし、もうやってるよ、という人も多いと思う。

    たしかに最近は、社会課題の解決のために汗するNPO業界においても、プロボノをはじめとする様々な変革の動きがあるのはたしかで、素晴らしいことなのだが、私が言いたいのは、

    社会課題になど全く興味の無い人をポジティブに巻き込む

    ということ。

    ある社会課題のテーマに関心のある人たち、プロボノの方々も含め、が集まってワークショップが頻繁に行われている。

    そこで感じるのは、参加者がいくら別々の多様な背景を持った人たちであったとしても、やはり積極的にそれに参加している時点で、思考の指向性が似ているので、共感は呼べても革命的な発想が生まれにくいようなのだ。

    革命的なアイディアやソリューションの発芽は、もっと異質な存在、かき回してくれるものの存在が必要なのだが、それが無いのである。

    そうなると、打ち手としては、全く共感を呼ぶベースの無い人たちと、その課題について話すという困難なことをしないとダメそうだと思うようになった。

    考えてもみてほしい。

    これだけ、世界が大変なことになっているというのに、社会の関心は相変わらずAKB48だし、同じ中南米のコロンビアやグァテマラで何十人もが亡くなる災害が起こっているのに、TVは連日チリの落盤事故のヒューマンドラマばかりを放送している。

    これが現実だし、そもそも人類とは、たぶんこういう性格なのだ。
    だからといって、それを憂う時間もないし、その必要もない。

    要は、そういう社会に対して関心領域を創り出せばいい。
    それ自体もイノベーティブと言えるのかもしれないが、それは自分の中でまだ回答がない。
    ただ、アイディア勝負で何かが起こせる気がする。

    そこで、一つの社会実験として、こんな夢のような企画をやってみることにした。

    【しあわせライフを目指す「肉食系女子」のための合コン企画がついに実現!】
    http://blog.canpan.info/cosmo/archive/251

    なんで「合コン」なんだ?

    なんで「肉食系女子」なんだ?

    それは長くなるのでおいおい書いていこうと思う。

    いずれにしても、イノベーションを起こすということは、やりようによっては楽しく、しかもポジティブに、多くの無関心層にも関心領域を創り出しながら、一緒にできる、そんな気がしている。

    それで社会を、世界を、前向きに変えられるとしたら、それは明るい未来へとつながっているのではないだろうか。

  • 2010.02.02

    【訂正と追記】ソーシャルエリートの概念

    日本財団では毎年、インターン生を受け入れている。

    その中で今年度から始まったCANPANプロジェクトの学生ユニット「日本財団 Students Initiative Unit」には、相当に優秀な学生が集まってくれた。(そもそも日本財団のような組織にインターンをしたいと思う学生の資質は、マインドも含め高いという実感がある。)

    今後、彼らの活動をアーカイブ化して、ソーシャルな領域に関わろうとする学生の資質の素晴らしさを社会に魅せて行こうと思っている。

    そんな中、その学生の一人、西村くんからソーシャルエリートについてコメントをもらった。

    それによれば、すでにソーシャルエリート、という言葉は社会学の中にありますよ、とのこと。

    http://en.wikipedia.org/wiki/Social_elite

    たしかにびっくり上流階級の一員」という意味らしい。

    何をもって上流階級とするのか。
    従来までの市場原理主義的に言えば、競争に勝った人、それによって多額の富を得た人、または特定の権力を持つ人、がその一員と見なされるであろう。

    しかし、ここのところの社会的背景からするに、これのみを上流階級とするのはどうも無理がありそうだ。

    必ずしも「上流=幸福」ではないという観点を入れれば、それは正しいと思うが、一般的にはそれは理解されにくそうでもある。

    と、なると、「ソーシャルエリート」という言葉、すなわち、わざわざ「エリート」の前に「ソーシャル」を付けるのであれば、もっとふさわしい意味を付加するほうが、きっと社会的にも意義があるだろう。

    今までの価値観としての「資本的上流階級」を「Capital Elite(キャピタルエリート)」とするなら、資本主義は否定しないが、必ずしも資本主義に絶対的価値基準を持たない、むしろ人々からのリスペクトによって定義づけられる新エリート層を「Social Elite(ソーシャルエリート)」とするのはちょっと気持ち的にすっきりする。

    「Capital Elite(キャピタルエリート)」でググッてみたら、なんだかよくわからないチアリーディングのようなサイトを発見・・・まあ、これはこれでいいか・・・困った

    いずれにしても、「ソーシャルエリート」という言葉がベストかどうかは別として、特定の言葉でもって、社会的に素晴らしいことをしている方々を指す言葉を広めていくということは、ぜひやっていきたいと思うのである。

    西村くん、サンキューでした!まる

  • 2010.01.22

    シナジーメーカー

    CANPANプロジェクトのあるべき姿とは?」・・・

    年度末というのは、来年度の事業計画や予算を考えなければならない。
    その中で、昨年の11月くらいからずっと冒頭のこのテーマについて考えている。

    いや、毎年、この時期には必ず考え続けて悩んでいる(笑)
    ある意味、中長期戦略を毎年見直しているようで、恥ずかしいのだが、そのくらいCANPANプロジェクトは可能性もある一方、運用や見通しが難しくもある。

    結果として一年前の資料をひっくり返して読んでみると、戦略的な軸はぶれていないのだが、想像していた戦術など全く採っていない場合も多く驚いてしまう。

    つまり、それだけCANPANプロジェクトとは変転流転、走りながら形が作られているということかもしれない。

    CANPANの企画を最初に考えた時、「CANPANとは、公益業界における社会実験場」と位置づけたが、「公益業界における」が今は取れたものの、社会実験場である性格は変わっていないということだ。

    個人的には、「一寸先は闇」状態が嫌いではない。10年後が不安という人の話をよく聞くが、生きているかもわからない10年後の心配などしたくないし、そもそも10年後の未来がわかって楽しく生きていける気がしない。

    一寸先が崖では困るが、少なくとも闇でも「一寸先は前」であれば、あとは少しずつでもいいから進んでいければいい。

    前置きが長くなったが、「CANPANプロジェクトのあるべき姿とは?」を考えているうちに、「シナジーメーカー」という言葉が生まれた。

    Googleで調べてみたが、そんな言葉はないようなので、「ソーシャルエリート」に続いて、この「シナジーメーカー」という言葉も世に送り出すことにした。

    ■ソーシャルエリート■
    http://blog.canpan.info/cosmo/archive/219

    「産官民学」の連携や協働ということがよく言われるが、これらの領域は黙っていたら正直つながらない領域である。

    逆に言うと、社会がうまくいっている時には、これらの領域は別につながらなくてもいい領域とも言えるが、今の複雑な社会課題の解決には、これらの領域がつながらなければ解決などおぼつかない。

    したがって、それらをつなぐ触媒の役を果たす機関なり、制度なり、人が必要だ。
    日本財団は、それになろうとしている組織の一つであるが、それは誰でもできるというわけではない。

    それぞれの領域とつながっていて、それぞれの領域の特性を知り、さらに言うと、まるでシェフのように食材と食材のコンビネーションでおいしい料理を創るにも似た、アレンジができなければならない。要はプロデューサーである。

    それができると、そこにはそれぞれの強みが活かされ、弱みを補完し合う素晴らしいシナジーが生まれ、結果として社会が良くなっていく、という構図が出来上がる。

    これを生み出すプロジェクトとしてのCANPAN。
    うーん、なんだか今のCANPANの状態にすごく似ている気がしてきた・・・のである。

    シナジーメーカーとしてのCANPAN、「我こそは!」という方はぜひ本プロジェクトに力を貸してほしいし、関わって欲しいと思う。

  • 2010.01.18

    ソーシャルエリートという概念

    CANPANプロジェクトでは、この度、「ソーシャルエリート」という造語を考えた。

    これは、NPOはもとより、社会企業家と呼ばれるような方々のうち、特に「社会を良い方向にシフトさせるパワーを持った人」を指す。

    世の中を良くしたいという思いを持っている人が世の中にはそれこそたくさんいる。
    が、それらの思いやアイディア、企画などを具体的な行動にうつせる人というのはその中でも本当にごく少数だ。(寄付も行動の一つではある。)

    そして、そのアクションを、「社会を良くするソリューションの提供」にまで高められる人に至っては砂漠でダイヤを見つけようとするくらいに激減する。

    逆に言えば、社会的に見るとその人たちはとてつもなく大きな「人財」ということだ。

    これらの人々は、少なくとも長者番付に載るだけの資産家などよりも社会的にはリスペクトされるべき存在であるはずだが、どうも世の中でいうところの「エリート」という見方をされていない気がする。

    それは、一つには、その人たちを指す言葉が無かったからではないかと気づいた。
    社会起業家もその枠の一つであるが、起業しなければいけない必要は必ずしもないので、より包括的な意味での言葉が必要だ。

    そこで、そんなリスペクトされるべき存在、または憧れられる存在、他の人からロールモデルとして位置づけられるような存在としての造語として「ソーシャルエリート」という言葉を世の中に送り出したい。

    ちなみに、お金をたくさん稼いでそれを寄付するという行為は、リスペクトには値するが、ソーシャルエリートではない。ソーシャルエリートは、それでもって世の中を変えることができた人にこそ贈られる名誉ある称号だ。

    政治家は、立場上、このソーシャルエリートに最も近い領域に住むことも可能な住人達だが、本国会の汚い野次などを聞いていると、朝青龍ではないが、品格というのもソーシャルエリートの要件な気もしてしまう。(あの品の無い連中は、自分を恥じるべきだし、そんな人物を国会に送り出している地元民はもっと恥じるべきだ。)

    まあ、それはともかくとして、近々、「勝手に認定ソーシャルエリート大賞」というものをやってみようかな・・・まる

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