• 2006.08.09

    シニア・団塊世代向けブログ道場開催!

    日本財団ビル(東京都港区)にてシニア・団塊世代向けのブログ道場が開催され、私も「公益ブログの今が分かる~事例紹介~」というタイトルでお話しをさせていただきました。

    「シニア・団塊世代のCANPANブロガーのみなさんが聞きたいことは何だろう・・・」とかなり悩み、結局、現在のインターネットの潮流とトレンド、そこにおけるブログの位置付けなどをメインで説明させていただきました。

    そのため肝心の公益ブログについての説明が短くなるというベタな段取りになってしまいましたが、「とても面白かった」というありがたいコメントもいただき、次回への励みとなりました。

    次回の「ブログ道場」は9月6日(水)になりますが、時間枠も拡大されるかもなので、今回説明しきれなかった部分についても詳細な説明ができそうです。

    CANPANブログでは今、色々と面白いことが起こっているものの、最近は記事の更新数も多く、それらを追うのが大変になってきています。

    それらをダイジェストとしてお話しさせていただければと思っておりますので、ご興味があるCANPANブロガーのみなさま、年齢に関わらずぜひブログ道場にお越しいただき、名刺交換などさせていただければ光栄です。

    今回のブログ道場にご参加いただいた皆さま、本当にありがとうございました!キラキラ

    ■CANPANブログ道場オフィシャルブログはこちら■

    http://blog.canpan.info/blog_dojo/archive/20

  • 2006.07.07

    戦争にたとえれば

    インターネット世界における勢力抗争を実際の戦争に例えた場合、大きく異なる点が2点ほどある。

    一番大きな点は、突然降って湧いたような新技術、またはアイディアが出現して勢力図を一気に塗り替える可能性が高いという点だ。

    具体的事例で言えば「Google」の出現がまさにそれである。

    通常の戦争においては、敵の新兵器というものは、味方でも想定している、または研究や開発中であるといった状態で使用されるため、使われた側は先を越されたという気持ちと共に唇を噛みしめ、その兵器の威力を目の当たりにすることになる。

    つまり、実際の戦争において、敵の新兵器使用は「予想できる範囲内の出来事」であり、石器時代にミサイルが出現するようなことはないのである。
    しかし、インターネットの技術戦争ではこれが容易に起きうる。

    そして、もう一点は、必ずしも金持ちが勝つことはないという点。別な言い方をすれば、商人との結びつきがなくとも勝てると言うこと。

    中世ヨーロッパにおいて十字軍を支えたヴェネチア商人、チンギス・ハーンの世界征服を支えたシルクロード商人、織田信長とつながっていた堺商人、最近ならアメリカの軍需産業。戦争の影には常に商人の意思が動いている。

    しかし、インターネットの世界では、商人というアイテムは勝つための必須条件ではない。つまり、ある個人が何の制約もない状態で世界を席巻できる可能性を持っている。

    この二つの特徴は何を物語るか?

    それは、インターネット世界が、「戦略的優位が戦術のみで容易にひっくり返るという別世界」ということである。

    つまり、リアルの世界での常識である「戦略的勝利が戦術的勝利によって一気に覆るということはまず有り得ない」が、容易に起こり得る世界なのだ。
    逆にそれこそがインターネットに大きな可能性を感じる部分でもある。ちょっと意味合いは違うが、アメリカンドリームの世界と言ってもいい。

    変な表現ついでに、ジョン・レノンが歌った「イマジン」の世界が実現されるとすれば、それは人間の精神面において、インターネットのバーチャルな世界がリアルな世界を乗り越えた場合か、ドラえもんが「どこでもドア」を出してくれた場合しかあり得ないと思うのだ。

    人間はきっと三次元という中途半端な世界を持て余しているのだと思う。「欲」というものは、人間の住む世界が二次元に落ちても四次元に上がっても、一気に減少するだろう。(減少することがいいかどうかは別として)

    ちょっと意味のわからないことになってしまったので戻すと、CANPANが、世のため人のために「これはすごい!」というようなアイディアを具現化したとして、それを誰もが使い始めたら、それはGoogleが提言する「インターネットの意思」として、確実に世の中は良くなっていくだろう。

    そこには特定の商人の意思だとか、特定の人の政略的な意思だとかの入る余地が無い。

    やや逆説的な言い方になってしまったが、だからこそ、CANPANは成功しなければならないのだと最近思う。

  • 2006.06.26

    本庄国際リサーチパーク研究推進機構

    CANPANがオープンして早一年、このCANPANというサイトの仕事をさせてもらうようになって、これは本当に自分にとってありがたい仕事だと思うことが多い。

    今日は、財団法人「本庄国際リサーチパーク研究推進機構」で事務局次長をされている大塚岳志氏とちょっピーで有名な田島さんのご紹介でお会いする機会を得た。

    感想としては、「ここにも人物が一人いた!」という感じである。
    大塚さんをCANPANとしてもぜひサポートして、他のCANPANのユーザの皆さんに面白いコンテンツを提供できるようにしていきたいと思っているのでそちらはお楽しみに!

    そして、冒頭に書いたことに戻ってくるが、田島さんといい、大塚さんといい、おそらく、いや、間違いなく日本財団が資金的な支援をしていただけであれば知り合う機会がなかったであろう人々なのである。

    資金による支援は有限だが情報の支援は無限の可能性を持つ」という理念というかコンセプトで日本財団が提供させていただいているCANPANだが、このような一種奇縁のような素晴らしい方々との出会いを通じて、一番の受益者は実は日本財団自身ではないのかとの思いを強くする。

    ならば、日本財団はさらに社会に何かをお返ししなければならないだろう。
    それはもちろんCANPANを通じてでもいいし、助成金でもいいと思うが、それは日本の公益にとって、希望に満ちた明るい話題の芽の一つとなるはずだクローバー

    大塚さん、田島さん、今日は貴重なお時間とお話、ありがとうございました!電球

    これからもぜひよろしくお願いいたしますまる

  • 2006.06.26

    陶芸家 中野純

    友人に中野純という陶芸家がいる。

    詳細はこちらのホームページを見てもらうとして、6月28日から銀座松屋で開催される彼の個展の紹介をしたい。(写真:立木義浩)

    何でわざわざCANPANブログで紹介するかというと、彼の作風にCANPAN的な雰囲気を感じるからである。

    芸術というのは岡本太郎氏ではないが、独りよがりなのは言うまでもない。そのくらいでないと優れた作品など作れないだろう。
    芸術家がいて、彼(彼女)がただ表現したいことの発露が、結果として見る人を満足させ、時としてため息をつかせることになるだけだ。

    陶芸もまたそうであろう。その中にあって、彼の作風は彼の性格が作品に表れていて、すごく柔らかくやさしい。特に天然灰釉にこだわった色彩は見事である。「二つと同じものは作れない」と彼は言う。

    機械で回す轆轤(ろくろ)ではなく人の足で蹴って回す轆轤にこだわり、天然灰釉にこだわる彼の陶芸に対するこだわりはハンパではないが、その土台に「自分の作品を使ってくれる人に対する感謝と思いやり」がある。
    自分のこだわりと人の役に立ちたいという思いをバランス良く配置した作陶。
    これが彼の陶芸がCANPAN的である所以である。

    彼と友だちになってから、和食器は彼の作以外は買わないことに決めているのだが、そのくらいいいものを作る。

    彼には早いとこ世界に自慢できる日本人の一人になってもらいたいと思っている。
    日本は世界に誇れる人物がたくさんいるのに、それを日本人自らが過小評価する悪い癖があって、そんな状況を打破するには世界で認められ、活躍する日本人がもうちょっと目に見える形で増えないといけないだろう。その一翼を彼にはぜひ担ってほしい。

    その転機の一つとなるであろう動きがこの夏にあって、彼は千葉の山奥に窯を構える予定でいる。彼は現在、吉祥寺で電気窯を使って焼いている。が、自然の火がもたらす熱の強弱が織り成す釉薬の色合いの複雑さはその比ではないそうである。
    吉祥寺ではさすがに薪を使って焼くわけにはいかないので、千葉の山奥に引っ越すことになったという次第。
    表現のフィールドを得て、どれだけ見事な器が生み出されるのか、楽しみでやまないまる
    彼もまた、無から有を生み出すことのできる才能の一人であるキラキラ

    そんなわけで、このブログを読んだ方、ぜひ松屋銀座に行ってあげてください。その際は「Yo_カッパ」ブログ見て・・・と言うと彼もかなり喜ぶ・・・はず・・・ヒヨコ

    中野純作陶展の詳細はこちらです笑顔

    ■中野純(Jun nakano)作陶展■
    会期/2006年6月28日(水)~7月4日(火)
    会場/松屋銀座7階 美術サロン

    ※彼はまだ英雄になれていないが、期待を込めて英雄列伝に入れてみた。

  • 2006.06.17

    丘を越えて

    私の尊敬する人物の一人に「SCARECROWS」という劇団をやっている上田ボッコという叔父がいる。
    この叔父が初めて作から演出までの全てを自分で作り上げた舞台を行うというので観に行った。

    題は「丘を越えて(写真の題字は叔母が書いているがいつも見事である)」、主人公は中年の男。

    幼少の体験でトラウマを抱えて育った男は家庭を省みず仕事に明け暮れた揚句、息子が妻を殺して自殺、アメリカに留学している娘を除いて孤独になる。そして男は途方に暮れ故郷に戻ってきた・・・というところから始まる物語である。

    全体の内容は長くなってしまうから割愛するが、テーマの一つである「絶望の中の希望」をコンシャスとサブコンシャス、現在と過去のきわどい狭間で展開させるストーリーは、古典的ながらも、人間味あふれる叔父のスパイスが効いていて見ごたえのあるものであった。

    「絶望の中の希望」と言えば「パンドラの箱」を思い出す人も多いだろう。あの話を初めて読んだ時、パンドラが最後に箱から「希望」を出してしまったことが最も罪深いように自分には思えた。
    作者は希望というものを嘲っているんじゃないかと感じるくらい悪意に満ちていた気がする。

    この劇では、そんな無意味な悪意は当然無いが、主人公の「親父は毎日毎日この道を『丘を越えて』を唄いながら自転車を漕いで、そんなのは親父の求めていた夢じゃなく、心の中にドロドロした大きな野望を持っていたはずだ。それは何だったんだろう」というようなセリフがあった。

    自らも演技者であり、演出家でもある叔父がこのセリフをどのような思いで書いたのか聞いていないからわからないが、とても心に残るセリフだった。

    終劇後、叔父に自分がイメージしていた何パーセントくらい表現できたかを聞いたら、「全くダメだなぁ、当日に変えたりすらしてるしね」と少し照れながら言っていた。

    ゼロから何かを作り上げる、これは本当に大変なことだ。頭にあるイメージを具現化、つまりこの世に存在させるという行為は、とんでもない才能と努力を必要とする。

    それが例え0.1の出来であったとしても、無限大×0=「0」であった時とは違う。「有」はどんなに小さくても「存在する」のであり、その価値はゼロとは比較に値しないほど貴重だ。

    それを演劇というさらに困難な分野で実現した叔父はやはり自分にとって尊敬に値する。
    60(たぶん)を過ぎてなお、この創造性と行動力、本当に感服である。

    CANPANもそうでありたいと思う。今は0.1なのか、それとも0.01か。CANPANはまだまだだ。
    しかしCANPANには今、全国から素晴らしい人たちが集まりはじめてくれている。
    毎日、その力を感じている。この素晴らしいユーザの皆さんの声を聞きながらCANPANを限りなく「1」に近づけていきたいと、舞台の帰り道に思った。

    ちなみにこの叔父は近々CANPANブログでブログをはじめてくれるそうである。
    彼の「ドロドロした大きな野望」がCANPANブログで展開されることに希望が膨らむ。