• 2007.02.01

    一即多~すごい時代の続き~

    一即多~すごい時代~」の記事を読んだ方から「なぜ盧舎那仏の写真が?公益と関係が?」という質問をもらったので、拙文の説明不足を恥じて、続編を書くことにした。

    タイトルの「一即多」という言葉をご存知の方は「そりゃ盧舎那仏だよね」とつながったと思うのだが、公益との関連性、つまりCANPANブログとの関連性は、かなり飛んでしまっていた。

    「一即多」をご存知ない方のために、簡単にお話しすると、「一即多」は華厳宗における思想の表現である。

    般若心経の「色即是空 空即是色」をご存知の方は多いと思うが、これの華厳宗版のようなものと、とりあえず考えてもらっていい。

    この「一即多」の説明は「米粒」で例えられる。

    自分の手の平に一粒の米粒がある。このこと自体は自然の摂理、または宇宙から見たらとても小さい話である。

    しかし、米粒がこの手の平に乗るまでには、種を植える人がいて、太陽や雨が恵みを与え、稲となって成長し、それを刈る人や運ぶ人、売る人・・・がいて、そしてようやく自分の手にその米粒が乗ったという、長い長いつながりが隠れている。

    この、一つの事象が様々な縁によって紡ぎ出されていること、そして多くの事象は実は一つのつながりを持っていることを「重々無尽の縁起」と言い、これが華厳宗の思想(宇宙論)である。

    私はどちらかというと唯物論者に近いので、特に信仰している宗教もない(クリスマスも祝わない)が、この華厳宗の思想には敬服している。

    そこで、タイトルを「一即多」とし、まさにCANPANブログで、一人一人のCANPANブロガーの皆さんが何気ない日常を記録するという行為がいかにすごいことか、それが一つのサイトに集まり出していることがすごい力となり得るかを、華厳宗のすぐれた理論をお借りして表現したということでした。

    念のため、「盧舎那仏」は、華厳宗のこの宇宙論の象徴。
    有名な東大寺の大仏はこの盧舎那仏、東大寺は華厳宗の日本最大の寺院なのです。

    東大寺大仏殿は、平重衡(平清盛の五男)と戦国武将松永久秀によって二度焼失。この焼失がなければ、大仏殿は今よりも大きく、また大仏は金色に光り輝いていた。

    余談も余談が続くが、金色の大仏にはご利益が無さそう・・・と思わず思ってしまいがちだが、金色に輝いていないと、実は仏としての要件を備えておらず仏と呼べない。したがって金色に輝いていたほうがご利益はある・・・はず。

  • 2007.01.30

    一即多~すごい時代~

    今、もし「日本の公益活動のことは初心者ですが、実態を知りたいと思ったら何を読めばいいですか?」と聞かれたら「一度、CANPANブログをじっくり眺めてはどうでしょう?」と答える。

    それくらいCANPANブログには現場で活動する皆さんの貴重な情報が詰まっている。

    一つ一つのブログには、なにげない日々の活動をブログに上げているものがたくさんある。
    「なんだ、そんな情報たいした情報じゃないよ」と思う人は、ちょっと思案のしどころである。

    今まで、日本の公益活動の現場で起こっている日常を、文字情報として知り得る手段は皆無に近かった。しかも、自分の家や職場で、どこにも出かけることなく、日本中の皆さんの生の声が聞けるのだ。

    歴史を紐解けば、平安時代、貴族の生活は文字情報として多く残されているので当時の貴族が何を考え、どのような歴史を歩んだかを知ることができる。

    しかし、平安京や平城京にたくさん住んでいた民衆(説によって違うが平安京の場合、10万から20万と言われている)は何をしていたのか?
    これは実はわかっていないのだ。

    多くの民が住み、生活を営んでいたことは明らかではある。しかし、それらの人々がどのようにして暮らしていたかについての記録は皆無に近い。

    つまり、当代の人たちにとって、当たり前すぎる日常は記録されない(されにくい)のである。
    結果として、現代の我々は、当時平安京に住んでいた10%未満の特権階級の人々の考え方や歴史でもって、当時の日本を振り返るしかない。

    しかし、今、CANPANブログでは、そういった貴重な、日本中の公益業界で活躍する方々の日常が、共有財産として蓄積されつつある。

    これは革命的にすごいことではないか?
    なんとすごい時代になったのだろうと思う。

    この財産の蓄積にネットワーク、コミュニティの動きが加速されれば、「日本を民(みん)の力で良くしていく」というCANPANが掲げる究極的な目標が絵空事ではない目標として現実味を帯びてくる。

     

  • 2007.01.25

    グーグル革命

    笹川会長(日本財団)から、「NHKのGoogle特集見たか?」と聞かれ、テレビをほとんど見ない私は「・・・いえ、見てません・・・」「すぐ見ろ、みんなで見ろ」ということになりました。

    それで、情報グループでNHKスペシャル「“グーグル革命”の衝撃 あなたの人生を“検索”が変える」を見ました。

    Googleの理念の高さ、システムのすごさ、インターネット界にもたらした衝撃は確かに革命と呼ぶにふさわしいので、今さら私が述べるまでもないため割愛しますが、Googleについてあまり知らない人にとって、あの番組は強烈なインパクトがあったということは容易に想像ができます。

    番組の中で、「Googleの上位10位(だったかな?)までに出てこなければあなたのサイトは無いのと同じ」というSEO対策会社の社長さんが顧客のリスナー達を相手に話すシーンが出てきます。

    Googleに認められないことは存在を否定されてしまう・・・恐ろしいことです。

    なので、あえて言いたいのですが、「Googleがあなたの人生を変えるか?」と言われると「変わらないですよ」と答えます。

    Googleは、情報化社会における近代合理主義の究極を具現化しているのではないかと思います。しかし、どれほどのものであれ、Googleは単なるツールです。

    ガソリンが要らない太陽の光だけで永久に走る究極のエコカーがトヨタから発売されたら、みんなそれを買うでしょう、むしろそれで地球の温暖化が止まるなら、車を利用する人はみな買うべきです。
    Googleの一人勝ちはこれと同じこと。

    この視点が見落とされがちなのではないかと思います。

    つまり、「あなたの人生をGoogle(検索)が変える」のではなく、「あなたがGoogle(検索)を選ぶなら、人生を変えられる(かも)」という言い方がより正しいでしょう。(テレビ番組なので刺激的なタイトルにしただけだと思います・・・)

    例えば、有名なmixi(ミクシィ)の中の情報はGoogleでは検索されず、mixiの中でしか検索ができません。たとえそこにどんなに有益な情報があったとしても、Googleからそれは見えないのです。(間接的に知り得るかもしれませんが)

    Googleは公開されている情報に限り、優秀な検索エンジンですが、非公開の情報や、Googleのクローラー(サイトを探して情報を収集するロボット)が苦手とするサイトの情報は検索されない。

    それでも、あなたがGoogleというツールを選んで使っている、というだけの話です。
    テレビを点けたら面白い番組をやっていた、「あるある大辞典」、次の日に納豆を買って食べた。

    これも同じこと。

    その情報を得る手段、得た情報をどう捉えるか、その情報でどう動くか、それは自らの判断と選択の結果です。

    大切なことは、情報には必ず何らかのフィルターがかかっていることを理解した上で自分で判断して動き、結果に覚悟と責任を持つことです。特に日本人はこれが苦手なのかもしれません。(こんなことを言っている自分が一番あやしい)

    Googleは「インターネットの意志」がGoogleの強さだと言います。
    この理念をGoogleが持っている限り、Googleの一人勝ちは決して人類にとって忌避すべきものではない。ローマ帝国とキリスト教との関係のように世界とGooleを捉えるべきではないと思うのです。

    ITの世界で生きていく、ITを使って金を稼ぎたいと思っている人にとってGoogleを無視することは無理があります。でも、そうでない人は、これからも単純に便利にGoogleを使えばいいのではないかと思います。実際怠惰な私にはとても便利です。

    私は「CANPANというサイトはツールでしかありません。このツールを使って公益活動をしている皆さんが力を合わせること、コミュニティを作って世の中のために活動する幅を広げていくことこそが財産です。」と常々話しているのですが、それはこの発想によります。

    CANPANも所詮はツール、高い志を持って集う人々とそのコミュニティと情報の共有、これができる社会的インフラを提供できることがCANPANの存在意義であり、価値です。

    映画「マトリックス」ではないので、インターネットに人は住めません。
    人はリアルで、それ故にネット以外の世界がもっと大切にされなければならないのですが、今はそれが逆転していることが当たり前と思っている人が多いように感じ、Googleの一人勝ちより、そちらのほうが気になるのです。

    ※この記事は企業的な視点ではなく個人向けに書いています。

  • 2007.01.19

    不二家の危機管理意識の欠如

    2007年、今年の日本企業のCSRはどのようになっていくのだろう・・・と思いを巡らせていた年初は、いきなりの不二家の不祥事で幕を開け、連日の報道となっている。

    その中で「パートに期限切れの牛乳を押し付けていた」とか「三秒ルール(床に落ちても三秒以内に拾えば良しとする意味不明な現場での暗黙ルール)」とか、様々な実態が明らかになる中、個人的に不二家の一番の問題と感じたのは、役員からのこのコメント

    事実を公表したら雪印の二の舞になると思った

    である。

    今更、「一体、あなた方は雪印や三菱自動車といった一流ブランド企業による一連の不祥事をどのように見ていたのか?」と問う気にもなれないお粗末なセリフ。

    この一言は不二家の危機管理体制のすべてを物語っている。このような危機管理体制の組織であれば、次々と明らかになる様々な実態は推して知ることとすら言っていい。

    もし、不二家が

    事実を公表しなかったら雪印の二の舞になると思った

    とコメントできる企業であったならば、そもそもこんな不祥事は起こらない組織であったろう。

    このトップ陣の幼稚な危機管理意識と組織全体にはびこるずさんな工程管理、これは決して独立した問題ではない。

    ボトムアップで腐っていく組織はない。組織は上から腐りはじめて崩壊する」という組織論は、不二家にも忠実に当てはまる。

    このトップ陣の不勉強が招いた結果の一番大きな責任は、国民の食の安全に対する信頼が云々と大袈裟に取り沙汰されているが、不二家のお菓子を食べなくても国民生活に支障があるわけでもないわけで、それよりも不二家で働く多くの従業員とその家族の生活を、もしかすると人生設計そのものを変えてしまったであろうことにある。

    CANPANでは、2006年11月から東証一部上場企業1,700社+αのCSRの情報公開に関する調査結果を一覧で見ることのできるデータベースを公開した。

    その理由の一つに、不二家に見られるような悲劇を各社からの、できれば自主的な、情報の公開によって社会から無くしていきたいという思いがある。

    我々の調査対象が、まずは東証一部上場企業、と限定したのは、マンパワーや予算的、時間的な制約も大きいが、社会的責任という点において影響度と共に非常に重要な役割を担わざるを得ない日本の大企業のCSRの実態はどうなっているのかを把握しようという意味合いが大きかった。

    今回の不二家の不祥事は、CANPAN CSRプラスが果たさなければならない役割について、あらためて考える良い機会となった。

  • 2007.01.18

    山崎拓氏、北朝鮮訪問に思う

    幕末の鬼才「勝海舟」は、幕府の命令を受け咸臨丸に乗り米国を視察、帰国後、老中安藤信正に「貴殿がアメリカで見てきた日本との違いは何だ?」と聞かれ、「大した違いはなかったが、アメリカではそれなりの地位の人はそれ相応の才覚を持っていました。」と幕府組織に強烈な皮肉を言い、お叱りを受けたと後に語っている。

    その幕府がその後どうなったかはご存知のとおりである。

    その子孫たる100年後の私たちはどうか?

    今回の山崎拓氏の意味不明な北朝鮮訪問について、議論百出したが、これほど情けないこともない。

    与党に与しながら、国策を踏みにじるような独断専行、国益よりも自己主張を優先する身勝手な行動、戦略性のかけらも無い軽挙妄動、山崎氏が政治家としての資質に欠けることは今さら言葉をつむぐのも面倒になる。

    さらに、この訪問についてもおそらく税金は使われているだろう(私費だとしても彼は公務員として税金から給与をもらっている。)、やりきれない思いだ。

    しかし、問題はこのような政治家が過去に何度も政治家の資質と問われながらも、相変わらず政治家として存在できている事実であり、それを実現させている国民の資質である。

    絶対神が専制君主となり善政を布いた場合、そこに住む人間は幸せであろう。
    何か問題が起こったら「神さま~」と、権利を自己主張して泣きつけば「よしよし」ということになって丸く収まるのだから、こんな楽なことはない。
    しかし、代わりに人間としての尊厳は捨て去らねばならない。

    民主主義が、今の日本は相当に末期的症状ではあるものの、それでも専制君主制よりマシだと思うのは、最終責任は市民が負っているという点にある。

    今年は重要な選挙が予定されている。
    そろそろ日本国民も自分の村が・・・だけでなく、政治に対して国民として責任を持つ大人になるべきではないか?なれるはずではないか?と思う。

    そして、選挙に行くという責任を果たさない人は、「政治を批判する権利も無い」ことをあらためて銘記すべきだ。(テレビでもっともらしいことを言うコメンテーターの人達の投票率を知りたいと思うのは私だけでしょうか?)