2015.02.05
とあるきっかけで寺子屋について調べていたところ、実物教授(じつぶつきょうじゅ)、またはペスタロッチ主義という言葉にたどり着いた。
もう少し詳しく調べたいが、これは明治維新から間もない明治5年に布かれた教育法令である「学制」に示された教育の基本方針らしい。
一方的な詰め込み学習は意味がないということで、この実物教授を目指していたようで、今の日本の教育方法とは真逆とも言えるものを明治維新時に目指していたことに驚愕。
(藩校の基本が、そのような師からの一方的な詰め込み暗記教育だったことに対するアンチテーゼということか?)
最近のネタで言うと、財務省が40人教室に戻そうというような意味のわからない指針を出したことは記憶に新しい。
それによって約4,000人の教員を減らすことができ、80億円の人件費削減につなげられるという話。
「教育は国家100年の大計」というけれども、このような方針が財務省から出てくるとというのは、いろいろな意味で危機感を覚える。
で、言いたいことですが、平成26年時点での小学校数は公私合わせて20,852校。「そんなにあるんだ!」と驚くのは早い。
江戸時代の寺子屋の数、これは正確な数値はわかっていないものの、確認されているものだけで15,512校(日本教育史より)、実数はさらに数倍だったという話があり、これが世界に誇る日本の識字率の高さの源泉だったというのも有名な話。
それでもって、「学制」の後、ほどなくして発布された「教育令」の頃には、小学校の数は約24,000校。そう、今の小学校数より多いのです。
3500万人の時代に2万4千だった小学校の数は、1億2千万人の人口の現在ですでに少ないのに、さらに減らそう・・・という発想はどこから来るのか?
もちろん、数量と質はイコールではないから、数だけ増やせばいいというわけじゃないのは自明ですが、それでもなお、直感的にヤバいんじゃないか、と教育現場には素人同然の私ですら感じるものがあるわけです。
さらに言うと、この明治時代の小学校の様子を描いた絵の多くは明らかに36人も居ない一つの教室に先生が二人立っている様子が残っています。
どうやらアシスタントのような先生と共に、一方的な詰め込みではない実物教授が行われていた模様。
日本が迫りくる帝国主義の奴隷とならないために必死で国力をつけるべく取られた教育制度、欧米のシステムを真似した部分も多々ありますが、どういうわけか、今の日本が先人の知恵に学び、回帰してもよいようなことが多々あるのかもしれない。
寺子屋調査、やはり奥が深い。
2015.01.19
昨今のマクドナルドを起点とした食品への異物混入騒動は、個人的には行き過ぎの感が否めない。
和光堂のコオロギ混入も、混入経路の調査は必要だとしても、全てを回収するというアクションに対してはかなり疑問。
それらは結果的に食べられるものが大量に捨てられるということ。
ぺヤングの工場が汚かったというような記事もあったけど、あれが本当ならそれは論外としても、ベビーフードという、製造には細心の注意が払われているであろう工場で、おそらくは「たまたま」入ってしまった虫一匹のために大量の「食べられる食べ物を廃棄する」という行為。
ゴキブリなんて1mmの隙間があればどこからでも入ってくる。100%混入させないなんてことは、どれだけの対応をしても不可能に近い。
食べ物が無く明日死ぬかもしれない途上国の子ども達のためにワクチン代を世界一寄付する日本人が、自分たちの食べる食べ物のためには虫一匹の混入でも大量廃棄を善とする。
だって世界では9億人以上の人が飢餓で苦しんでいるのに。。。
なんとも腑に落ちない。
で、今回の件で思い出した法律をあらためて読んでみた。
2012年に制定された、その名も「消費者教育の推進に関する法律」、通称「消費者教育促進法」。
http://www.caa.go.jp/information/index12.html
知らないよねぇ・・・(笑)
「消費者市民社会」とやらの実現のために作られた本法の定義にこんなことがしっかり書かれています。
「この法律において「消費者市民社会」とは、消費者が、個々の消費者の特性及び消費生活の多様性を相互に尊重しつつ、自らの消費生活に関する行動が現在及び将来の世代にわたって内外の社会経済情勢及び地球環境に影響を及ぼし得るものであることを自覚して、公正かつ持続可能な社会の形成に積極的に参画する社会をいうものとすること。」
何を言っているのかわかりにくいですが、要は「消費者は、自分たちの消費行動が経済や未来や地球環境にどんな影響を及ぼすのかを自覚して、持続可能な社会のため積極的に学び、行動しましょう!」ということらしく。
この法の趣旨から鑑みて、今回の一連の騒動、「消費者市民社会」の目指す日本社会としてどうなんだろう・・・
こんな社会が持続可能なのか? と考えちゃいますよね。。。
2015.01.15
昨日の毎日新聞の東京版に、私の考えている風な写真と共に委員を務めさせていただいている「新CSR検定」の件が掲載されました。
毎日新聞という新聞社が、環境問題について日本では最も早く真っ向から取り組み、今も継続し続けているマスメディアであるということはあまり知られていません。
だから、環境分野で初のノーベル平和賞を受賞したケニア人女性の故マータイさんをノーベル賞受賞前から毎日新聞が注目していたのも偶然ではないわけで。
このようなセミナーでお話しさせていただいたことに感謝です。
■CSR検定■
http://www.alterna.co.jp/13523
2014.12.10
人間は、地球上で最も進化しているゆえに最も絶滅しやすい。
進化生物学的な視点でいうと、進化というのは「その環境に特化していくこと」。
つまり、ある環境に特化して適応し過ぎていくために変化に弱くなり、絶滅の可能性が高まるということらしい。
F1レースのフォーミュラーカーが、一般道すら走れないのに似てる。
乾いた路面用のタイヤが雨に極端に弱いのにも似てる。
地球上の生命体の中で、今の地球に最も適応した生物、人間。
この世を謳歌中。
一方で、地球環境はこの数千年、人類が文明を持ち始めてから激変している。
それらの変化の多くは人類自身が招いたことが原因と考えられている。
つまり、絶滅の可能性を自ら高めている。
ノーマン・マイヤーズによれば、恐竜時代には1000年でわずか1種だった種の絶滅は1600~1900年で4年で1種まで、さらに1975年には1年で1,000種になり、なんと1975~2000年には毎年4万種もの絶滅が起こっているらしい。13分に1種が絶滅してる計算、このスピードは単純に、相当ヤバい。
それはさておき、思ったことはそこではなく、日本人は、突き詰めて、「匠」化することに美を見い出す。「極める」というような言葉も大好きだ。
それはたしかに魅力的。料理でも道具でも極めた人のそれは素晴らしい。
しかし、進化生物学的な視点でこれを見てみよう・・・
それって変化に弱いってことなんじゃないか?
効率最優先の経営、ものづくり、サービス・・・日本企業は右肩上がりが前提の、インフラが整備され、それがゆるぎないことが前提の中で匠化し、世界を魅了し続け、驚かせてきた。
今の時代、それが通用しなくなってきている。
そんなことを考えていくと、黒船でしか日本人は変われないという言葉の理由も、なんとなく納得できてしまう。
納得してても仕方がないので、そんな日本人の気質に合った変化というものがなんなのか、そういうことを考えていかないといけないんだろう。
不安定と変化に特化したビジネスモデル、そんな匠モデル? なんだそれは。。。
シンプルに考えれば、大量生産、大量消費とは真逆路線の究極のカスタマイズ産業なんだろう。ニッチ路線てやつ。
地産地消とかもそうだろう。食糧や再生可能エネルギー、世の中の動きの中に、絶滅回避と変化への対応の動きはすでに出現している。
それらをスケールさせて、大企業でも許容できるサイズにしていくことで色々なことが大きく変わっていくんだろう。
あるいは大企業の中で働く社員の中に、そのようなことに気づいて動いている人たちが変えていくだろう。
今はその黎明期ということなのかもしれない。いや、そう思いたい。
2014.12.05
現在の複合化が進む社会課題の解決の一つの方法論を考えていく上で、軸とするべき、自分の中で考えたある理論の名前です(笑)
ちなみに、風が吹けば…ではありません。
別名、「社会課題解決バタフライ効果論」(笑)
北京で蝶が羽ばたくとニューヨークで嵐が起こる、というカオス理論のアレです。
ざっくり説明すると、それぞれの社会課題を個別に、独立したもので考えず、それぞれが関連していると仮説を立て、それらを俯瞰、その共通項(横串)を見つけていきます。
たとえば、「少子高齢化」
子どもが少ないから相対的に高齢化している社会の課題は、そもそもは経済分野の課題で密接な関係がある。
でも、平均年齢が高くなり高齢な人たちが物理的に増えていることそのものは、女性が生涯で生む子どもの数が1.3人という少子化とは無関係で、医学分野の課題が大きい。
つまり、高齢化と言っても実は多面的課題。
では、医学分野の課題は少子化と本当に無関係か? とも考え、仮説づくりを開始する、そんな感じ。
その共通項の集合体から見えてくる連鎖効果を、その社会課題の実態からバックキャストして原因を辿りつつ、解決策の最適解と思われる「仕組み」を仮説として立てます。
その仮説に基づき、可能な限りビジネス化を視野に入れ、持続可能性を高めるものへ仕上げていきます。
そんなイメージ。
ここでのポイントの一つは、風は吹くものではなく、風を吹かせるというアクションを自分達がやらないといけないこと。これを意図的に仕掛けるということです。
仕掛けの方法については、先ほどの「仕組み」のデザインを作る上で必要なことが見えてくるので、それが仕掛けの方法になります。
仕掛けた結果による効果が最もあったと判断できる状態とはどんなでしょ?
それは、仮説とその立証を通じて、仕掛け人の自分たちとは無関係の第三者にとっても、わかりやすくインセンティブが働く仕組みとなっている状態。
これは、できるだけオートマティックにスケールさせたいというめんどくさがりにとっては最重要なことです。
仕掛けた自分たちの間だけで仕組みが回っていても社会は変わっていません。
その場合、変わったのは自分とその周りの「世界」だけ。ここを勘違いするとタダの天狗でしかない。
ちなみに、狙いが特定の人たちの、彼らの世界を変えることが目的ならそれでOK。必ずしも社会全体を変える必要がない社会課題もたくさんあるわけで。
つまり、「社会を変える」のは容易ではないが、「世界を変える」のはさして難しくないということでもあります。誰の世界を変えるか、でスケールが変わるから。本気で地球を変えようと思ったら大変だけど。
そして、もう一つ、別名がなぜバタフライ効果かと言うと、社会を良くしようというような志ある人は、なんだかんだ言ってもソーシャルマイノリティ。
その少人数で大きな社会的効果を創り出そうと考えるなら、バタフライ効果的にモノを考えるのが重要で、扇の要みたいな役割を意識し続ける必要があるのでこんな表現に。
ここはカオス的な要素が強く、自分たちも意図しないスケールが出てくることが本当は大切。その意図しないスケールが最大化された状態を意識することが重要です。
なぜかというと、その最大化のスケール感こそ、おそらくは目指すべき状態だから。
でも、そこまでデザインしようとするとけっこう大変で、けっこうヘタるので、ただ、そういうスケールで物を考えようとすることがまずは重要くらいで進めることがオススメ。
というようなことで、かなり多面的な要素を持ちます。
そして、もう一つのポイント。
ある側面しか見ない人にはその側面だけが見えていれば良いという割り切りを持つこと。
あるいは、その側面しか見ないだろう人には、その側面だけを見せるだけでもOKだと思うこと。
社会に良いことをしたいと思うと、その熱意ばかりがどんどん外に出てしまい、「全部をわかって欲しい!」と思います。これは基本的に、「第三者にはうっとうしいもの」と考えておく。
ローマ帝国のカエサルですら、「ひとは見たいと思う現実しか見ない」と嘆いたのです。ましてや、私たちの声などどれだけわかってもらえることか…。
これは別に失望感から言うのではなく、人とはそういうものだと理解した上で、理解を得るように臨もうという意味ですね。
であれば、自分たちは全体最適を設計しているとしても、その全体像を全ての人が理解している必要なんて全くない。
さらに言うと、志とかも究極的には不要で、「儲かるからやりませんか?」となることが実は最高の状態。だって、わかりやすい、説明しやすい。
サルにはわからないと思うけど。
そして、そして、その全体設計図の中に「社会課題の解決スキーム」を周到に盛り込んでおく、ということ。
結果的に儲けることしか考えない人すら、社会に結果的に貢献させられている、桶屋が儲かっている、そんな状態を創り出すための風を吹かす。
なんかよくわからないけど、そんな感じの理論で、社会課題の分析を進め、企画にしていこうと思っておりまする。