2018.07.06
■茨城の県都・水戸、なぜ「独り負け」が続くのか■
https://toyokeizai.net/articles/-/184696
実家のある水戸の地価、独り負けという記事。
茨城県では最大人口の27万人を擁する水戸市、産業構造的にはかなり偏ったサービス業中心の地方都市、人口は数年前まで微増していたが今は下落傾向。これは今後も続くだろう。
記事では地価価格の下落を課題とするが、本質ではない。税収は今のところ安定しているし、固定資産税も目立った減少は今のところ見られない。
つまり、地価価格の下落はそれほど市民の生活を左右しない。
それよりも、将来的に深刻となるであろう課題は、水戸市がかなり偏ったサービス業を中心とした都市であるにも関わらず、その担い手となるべき生産人口の減少率が高いことだ。
これから、工業はもとより農業を含めた製造関係はおしなべてAIと機械にその業務が代替されていくが、サービス業の多くは最後まで人間を求める領域が残り続ける領域だ。つまり、需要はシンギュラリティ(技術的特異点)後もある程度の期間、仕事がある。それだけに、生産人口が減ることは大きなリスクとなりうる。
一方、記事中でライバルとされるつくば市は生産人口が増加傾向にある。これは2040年くらいまで続くことが予測されている。
仮に水戸市に新幹線が来ていたとしよう。それが生産人口を増やす要因となっていたか、という点については否定的だ。なぜなら新幹線通勤には水戸は近すぎて、つくば市との差別化が困難だからだ。都心へのアクセスは圧倒的に本数も多い「つくばエキスプレス」のほうが利便性が高い。さらに、計画都市として道路も歩道も広く居心地の良いつくば市に比べ、元々城下町でごちゃごちゃしている水戸市では比較にならない。
さらに、水戸市が社会全体がイケイケで都市計画などなんとでもなる、と思っていた1980年代、つくば市は1985年の「つくば万博」を起点として、研究学園都市としての発展を計画、思った以上に遅れた「つくばエキスプレス」の開通を40年近く待った。その間に近くには空港もできた。おかげで今は研究学園都市として日本でも特化した素晴らしいコンテンツ都市となっている。今さら勝てるわけがない。
それらを考えていくと、この5-10年だけで言うなら、水戸が取り組むべき施策の一つは、安倍内閣が「働き方改革」といううわべだけの施策を打ち出しまくってる中、テレワークだ、サテライトオフィスだと、金をばらまいているので、この波に乗って企業誘致をすることだろう。
もちろん、そのための施策を考えることは必要だ。企業誘致に取り組む自治体は全国にあり、市場はレッドオーシャン化している。
そこでの競争優位性を出すには、ハードというよりソフト部分での戦略的誘致施策を考えていく必要がある。
少なくとも、テレワークとサテライトオフィスに関しては、「通勤には少し遠い」「移動には少し不便だが、がんばれば日帰り可」などいくつかのキーワードがある。その点で水戸市は優位性がある。
地理的条件というものは、新幹線とか飛行機とか、その条件をブレイクスルーできるツールは世の中的にはあるが、絶対ではないし、それになんと言っても金がかかる。その費用対効果を考えるなら、やはりその場所にある、という動かせない事実に目を向けて自分たちの強みを考えていくべきだ。
それらを総合的に見れば、水戸市には可能性が多くある、と思う。
独り負けだって悪くない。だって、安い価格で企業誘致できるわけだから何もマイナスではない。
ただ、問題は市政をシニア世代が舵取りしているということ。その間はその可能性すら活かすことは無理だろう。
その方々が自分の保身と健康以外のことを考えない市政を続ける間に、可能性はどんどん減って行くわけで、「緩慢なる衰退」を望まないなら、水戸市民も新しい世代に市政を任せていくべき時がとっくに来ていると思う。
2015.08.25
連日の猛暑もひと段落したけれど、今年は世界が体験する最も暑い一年になるという予測があるらしい。
そんな中、毎日のように亡くなられる方がいる熱中症、日本だけでも一年に1,000人以上も亡くなられる方がいて、しかも増加傾向にあるということで、これはすでに大災害とも言える。
http://www.mhlw.go.jp/file/06-Seisakujouhou-10900000-Kenkoukyoku/necchusho25_1.pdf
同時に、台風やハリケーンも温暖化が進む地球では大型化、石垣島では観測史上最大の瞬間最大風速71mを観測したとのこと。台風自体の発生数には増加傾向は認められないが、被害はどんどん深化している。
これらの災害コストは今後、地球環境の悪化と比例することを考えればさらに悪化の一途を辿るだろう。
増加するのは社会保障費だけではない。このままいけば軍事費も増大の一方だろう。そして災害コストも。
今の日本にそれらを賄う体力はない。
国民全員がもっと本気で持続可能な日本の在り方について考えて良い時代にすでに入っている。
しかし、社会は相変わらずその変化へアクセルを踏もうとしていない。
ちなみに、日本の災害対策基本法の中では、猛暑などは災害の定義として挙げられていないけれど、ISO26000やSDGsなどが、もう気候変動をストップしようとかいうことでは間に合わないから、世界がその変化にどうやって適応していくかを考えよう、ということに方向性を変えてきているのを見れば、その深刻さがわかる。
この場合の未来を変えるデザインとは、災害に強い街づくりや家づくり、という守りのデザインかもしれない。
2015.07.16
ベトナム戦争のドロ沼化のきっかけとなったのは、例のトンキン湾事件。
その報復としての大規模な軍事介入。その権限を時のジョンソン大統領に与えたのが有名な「トンキン湾決議」。
これは上下両院による与野党を含めた圧倒的な議員の支持で承認された。
この決議が錦の御旗となってドロ沼の戦争にアメリカは足を突っ込んで、国民に多大な犠牲を強いた。
これが決議された時、支持した個々の議員も国民も、10,000km以上離れたアジアの一国のことなんて正直、別の世界の話だったでしょう。新聞や普及したテレビの中だけの世界。
まさか自分達がそこに戦争に行かされるなんて若者達だって思ってもいなかったはず。
でも、戦争ってそういうものなのは歴史が証明してる。
歴史の教科書の年表みたいにある瞬間に戦争がはじまるわけじゃない。
わからないくらいのスピードと変化で、気づいた時には、国民の命を一気に奪いに来る。
今日もまた、とある国では、その変化のグラデーションが濃くなった、そういう日でしょう。
で、似たようなロジックのものがもう一つ。
【国の財政破綻】
ギリシャを見ててもわかるとおり、これもある日突然、唐突に訪れる。
なんか危険水域なんじゃない???ということはみんなうすうすわかってる。でも誰も対処せず、橋の上から眺めるだけ。そしてある日突然橋ごと流される。
バブルを知ってる中年世代以上の人は体感してる。
「こんな経済おかしいよ。長続きなんてするわけない。」と感じながら、誰も崩壊することを信じたくなくて、いえーいと踊っていたら突然弾け飛んだこと。
ということで、とある国の財政破綻のグラデーションも日々濃さを増しております。
そんな日本の未来を変えるなら、2020年が一つのデッドライン。
2025年と思ってたけど、オリンピックを開催することで前倒しになってしまったと思う。
たった一つの競技場に2500億円もかけて、「妥当な金額」とか言えちゃう人がトップにいるオリンピックは、間違いなく日本の将来に過大な負荷を負わせる結果で終わる。
そういう意味も含めて、オリンピック不況が来る2021年以降では遅すぎる。
2013.07.24
2011年3月に発生した東日本大震災は大変不幸な出来事でしたが、一方で今後の日本社会のあり方を考える上での明るい材料を得ることができた側面がありました。
それは、今回の大震災において企業の中で働く一人一人の社員の気づきや判断が、被災地における課題解決につながっていったケースが多かったことです。
現場レベルの気づきが、その後の企業の事業活動にも良い形で影響を与えることになった2事例(2社)についてご紹介したいと思います。これらはいわば、現場レベルでの「内発的動機」が企業内イノベーションを促していった事例であり大変参考になるものです。
【富士通グループのクラウドサービスを活用した被災者支援】
東日本大震災では、宮城県だけでも発災から約3日間で32万人が避難、約1,200ヵ所の避難所が設置されました。混乱を極める避難所を円滑にマネジメントすることは、阪神大震災の時にも課題となっていましたが、今回の大震災でも、被災者のニーズをいかに迅速、かつ正確に拾い上げて支援につなげていくかの仕組みが必要とされていました。
この問題に対応するため、「被災者をNPOとつないで支える合同プロジェクト」、通称「つなプロ」というプロジェクトが、阪神大震災の時に活動していたNPO団体を中心として立ち上がりました。
富士通グループは、本プロジェクトと早い段階から連携することで、自社の持っていたクラウドシステムを被災者支援の仕組みとして提供、結果的に大きな成果に結びつきました。
同社ではここで培われたノウハウを基に、今は現地における医療サービスの向上のための情報インフラの整備を自治体とも連携して進めています。
このプロジェクトは被災者支援から日本の課題解決プロジェクトへと変貌を遂げたソーシャルイノベーション事業としての性格を持っており、注目に値します。
そして、この事業の特徴は、現場の担当者が「つなプロ」の会議に参加し実際に被災地にも足を運ぶ中で何が問題であるのかを自身で見極め、それを社内リソースと結びつけて実行したというボトムアップ型による成果という点で、私たちに多くの気づきを与えてくれます。
※これらは後日、「在宅医療から石巻の復興に挑んだ731日間 (日経メディカルブックス)」として一冊の本となって発行されました。
ご興味のある方はぜひご一読ください。(私も一部で出させていただいています(笑))
【ヤマトホールディングスの「まごころ宅急便」プロジェクト】
※本活動はCSR大賞の記事でも触れています。
ヤマトホールディングス㈱の復興支援の取り組みは、震災直後の比較的早いタイミングで発表された「宅配便1箱につき10円寄付」という取り組みが有名です。
こうした大胆な経営判断もさることながら、現場レベルでの判断とそれを支える社員一人一人の思いが、それ以上にこの会社としての価値となっています。
その一例として、震災前から温められてきたアイディアが、今回被災地の中で実践され、その後、本業の方にもつながった事例があります。
ヤマト運輸盛岡駅前センターでは、日本全国に集配ネットワークを持つ同社だからこそ地域で高齢者の方々を見守れる仕組みを作れるのではないか、という思いから始まった「高齢者見守りサービス」の企画が立ち上がっていました。
特に高齢化率の高い東北では、お年寄りが買い物をする際に重い荷物を持って帰らなければならないということや、誰にも看取られずに亡くなられるという孤独死が大きな問題となっていました。
現在、この現場レベルでのこうした気づきを基に、東北地方を中心に「宅配サービス」と「高齢者の見守り」、「買物代行サービス」を組み合わせた仕組みを構築し運用を始めています。
2011年時点で65歳以上の人口割合が全体の23%を超える超高齢化社会の日本において、同社のような仕組みを提供する会社の必要性はさらに高まると同時に、そのソリューションを提供する同社の価値はさらに上がっていくに違いありません。
2012.09.16
東日本大震災における企業による被災者支援活動の特徴の一つとして、支援方法の多様性を挙げることができます。
今回は、この多様性の一つの事例として、東京の恵比寿に本社を持つサッポロホールディングス株式会社(以下、サッポロ)が行っている被災地支援活動について見てみたいと思います。
サッポロでは、2009年より、本社のある恵比寿の地域の方々への感謝を込めて恵比寿ガーデンプレイスという場所で「恵比寿麦酒(ビール)祭」というイベントを秋に開催しています。このような取り組みをCSR的視点で見ると地域コミュニティとの共生のために企業が行うアクションの一つとしてメジャーなものです。
■恵比寿麦酒祭り2012■
http://www.sapporobeer.jp/news_release/0000020410/
サッポロではこのイベントでのビール売り上げの全額約2700万円をNPOカタリバという団体が被災地で行っている「コラボ・スクール」という事業に寄付をしています。(実際にはここでの売り上げに加え関連会社などからの寄付も含んだ額を寄付。)
■コラボ・スクール■
http://www.collabo-school.net/
この事業は、被災したことにより教育の機会を奪われた子ども達に学びの場を提供することを目的として、放課後の学校を活用して塾形式で行われる事業です。
ここで教鞭をとる教師は塾が流されるなどすることで職を失った講師を雇用し、さらに年齢の近い大学生なども一部ボランティアで教えるなどしながら運営されています。
これにより、震災で遅れた子ども達の学習時間を取り戻すことができるだけでなく、被災された講師の方々の雇用を再生することもできるという非常によく設計された被災者支援事業となっています。
コーポレートコミュニケーション部 広報室の大森克弘氏が「本社のある恵比寿の地域の方々と一緒に被災地を支援したい。」と語られるように、本社のある地域の方々への感謝を込めて実施するイベントでの売り上げを被災地支援の寄付に充当するというのは、地域と一緒になって被災地支援活動を実施するということです。
その連鎖が社会との共感を生める取り組みとして素晴らしいだけではなく、会社のイメージアップにもなるもので見習うべき点が多々ある取り組みと言えます。
2011.11.18
東日本大震災の災害支援では、現在も引き続き多くの企業が社会貢献として様々な活動に取り組んでいます。
その中でも、存在感のある活動を展開している企業の一つが宅急便のクロネコヤマトで有名なヤマトホールディングス株式会社(以下、ヤマトHD)です。
東日本大震災発生初期、被災地は道路寸断とガソリン不足により陸の孤島と化し、大きな問題となっていました。
そのような甚大な被害の中、陸送のプロである彼らはグループ企業一
丸となった「みんなのチカラプロジェクト」を打ち出し、3月23日から
車両200台と社員500人で編成した救援物資輸送協力隊で支援活動を行
いました。
そして、現在も続く「宅急便ひとつに、希望をひとついれて」をキャッチコピーとした「宅急便1個につき10円寄付」を決定します。これはヤマト運輸の前年度の取扱い個数から想定すると総額約130億円、これはヤマトHDの予想連結純利益の約40%を寄付することになります。
12月末までに約110億7800万円を集め、ヤマト福祉財団を通じて宮城県南三陸町の仮設魚市場の建設や岩手県野田村の保育園建設などにすでに寄付をしています。
これらの活動が市民に高く評価され、ヤマトHDは、日本財団が毎年実施している市民の投票によるCSR大賞でグランプリを獲得しました。
■ヤマトホールディングスがグランプリ 東日本大震災支援でCSR大賞■
http://blog.canpan.info/koho/archive/1605
この受賞にあたり木川眞社長は「社員全員が参加し、私たちのあるべき姿(社会的責任)を形として示すことができた。」と語られました。
この取り組みが社会の共感を生むことができた理由として、寄付そのものはヤマトHD負担ながらも、消費者自身が宅急便を利用することで被災地支援に参加できる仕組みとして展開したことが挙げられます。
近年、本業を通じた社会貢献の在り方が叫ばれる中、社会からの共感を生みながら取り組みを展開しているヤマトHDの活動は、多くの示唆を私達に与えてくれます。
2011.03.12
大震災当日の締めくくりとして、自分が所属する日本財団の当日の対応について、深い自戒の念と共に、書いておきたいと思う。
11日の深夜(正確には12日の午前4時)、私は全役職員宛てにやるせない気持ちでメールを送った。
それは、日本財団が日本財団ビルのある赤坂周辺を含め、多くの帰宅困難な方々が出ているにも関わらず、一切、それを助けることもなく、休憩場所も提供せず、ひっそりと一夜を明かしてしまったという事実について、「人を助けることをミッションとする組織のあり方はそれでいいのか?」という自戒も含めた残念な思いを吐露するメールだった。
私は、実は当然、そういう動きが日本財団ビルで行われているものだと勝手に思い上がっていたのだ。
しかし、そんな動きは全くなかった。
多くの日本財団職員も帰宅困難者となり、ビル内に泊まっていたにも関わらず、全く何も、人助けのためのアクションをしていなかったという事実に落胆は大きかった。
しかも、各省庁をはじめとする公共施設はその方々に次々と受け入れを表明、会社やコンビニなどもそれを手助けしている中で、最もやらなければならない組織の一つである日本財団が何もしていなかった。その存在意義を考えた時、それはあってはならないことだ。
しかも、日本財団ビルの地下二階には、万が一の時のために非常用物品の備蓄があり、毛布もあれば水もストックされている。
それをこんな時に役立てず、一体いつ使うつもりでいるのか? ということを苛立ちと共に書いた。
そんなメールを役職員に送っても仕方のないことは重々承知だった。これだけの災害が発生し、自分もある意味被災者となった時、そんな冷静に組織として今すぐに何をすべきかに思いを巡らせることができるほうがむしろ変なのだということはわかっている。
それでもなお、自転車で走る中で見た、黙々と秩序立って歩いて行く多くの帰宅困難な方々の後姿を思い出すと、何度も悔しさがこみあげてきたのだ。
自分が一言、日本財団ビルに立ち寄って、それを伝えていればきっと動いてくれたであろうことは間違いがない。単に誰もそれに気付く余裕がなかっただけなのだ。
しかし、取り返せない時間と共に、その機会は失われていた。
とすれば、「ここから日本財団は何をするのか」、それこそが本当に問われる時間が迫っていた。
2011.03.11
震災からわずか6時間という異例の早さで「東北地方太平洋沖地震支援基金」が立ち上がったことは決して偶然の産物ではない。
これまでCANPANプロジェクトが行ってきた全ての事業がつながってここに集約された結果と言える。
CANPANプロジェクトに関わってくれているスタッフは、まだ余震が続く中でバナーを作ってくれたり、文言をお互いにチェックしたり、クレジットカード決済システムとの連携を含めて、本当に必死でがんばってくれた。
不安だったスタッフもいたと思うが、そんなことは一言も言わず、ただひたすら夜を徹して作業をしてくれたのだ。これはミッションを共有している者たち同士でなければ決してできないことであった。
そしてこの基金を立ち上げて数時間も経たないうちに、すでに何万円もの寄付が集まり始めていた。
この浄財は必ず現地で、それこそ命がけでがんばるNPOの皆さんに届ける、そんな思いを強くしながら朝を迎えた。
この一連の時間、CANPANセンターの事務所自体に人は居らず、帰宅できる者は帰宅し、遠方で帰れない数名は近くのCANPANプロジェクト協力カフェでもある「フォレスタ虎ノ門」さんに避難、自分は自転車を駆って、帰宅難民となった人達が秩序だって黙々と歩く姿に感銘を受けながら街の様子をリサーチしつつ自宅に戻っていた。
これは、リスクの点で組織機能を分散させるという意味があった。
CANPANセンターはこの非常時でもクラウド組織として機能できる。そう信じての分散だったが、それを確認することはできた。
ただ、余震の続く中での分散は、リスクを伴う判断だったと言わざるを得ない。
事務所のビルが耐震構造のビルならともかくリスクがあると言うのだから、今夜中にやるべきことをやるには、他に採る選択肢も自分にはなかった。
そんな中で、非常時にこそ機能するCANPANプロジェクト、という自分の思いを他のスタッフも持っていてくれたことが何よりうれしかった。
ちなみに、家では、愛犬も一人で留守番していたが普通に元気で出迎えてくれ、倒れたものと言えば飾ってあったKING OF POPのマイケルのフィギュアが倒れていた程度だったが、熱帯魚の水槽の水回りはそれなりの打撃を受けてしまった・・・
震災に強い家を目指してかなりこだわって自ら設計した家だが、この、趣味の領域だけは、リスク管理が難しい・・・とあらためて思った・・・
2011.03.11
「東北地方太平洋沖地震」が発生した時、自分は内閣府で「新しい公共」推進会議の「情報開示・発信基盤に関するワーキング・グループ」に参加していた。
ビル自体も古かったのもあるだろうが、非常放送のスピーカーがうまく鳴らなかったり、上水道が壊れたり、国の中枢機能を担う建物としては、甚だ危機管理ができていなかった。
おそらく立派な建物を建てると税金の無駄遣いだとか、そういうことを言われてしまうから、貧相な状態を維持しているのだと思う。
しかし、非常時に役に立たないようなビルに行政の中心機能を持たせておくことのほうが国民のためにならないということは間違いないことなのだから、声を大にして言ってもらいたい。
立派過ぎる建物であることや華美の建物であることと、非常時に役に立つような堅牢な建物であることとは別の話なのだということくらい国民だって理解してくれる。
それはさておき、ちょうどミーティングも最後の最後に地震が来たため、なんとか閉会したところ、ビルにヒビが入っているとかで、できるだけ早く退避してほしい旨の伝令(非常放送が機能しないため)が来て外に出る。
不安げな顔をした人達がヘルメットなどをかぶりながら外に退避していた。
この時はまだ、東北地方が震源で震度8の地震があったということを、Yahoo!の宮内さんがいち早くiPhoneで情報をゲットし、教えてくれた。
CANPANセンターに電話を入れるも、もちろんつながらない。
ツイッターだけが生きていて、それを見ているとどんどんツイートが流れてきていた。
阪神淡路大震災の時の唯一の通信手段は、当時はまだ普及間もなかった携帯電話だった。
珍しい携帯電話を片手に被災地を歩き回ったことを思い出した。
今回はまた新しい通信ツールとしてのソーシャルメディアが生きていた。
しかもSkypeも生きているという情報もツイートされていた。
とりあえず通信手段が確保できていることに安心する。(これは災害時、何よりも重要なことの一つだ。)
虎ノ門のCANPANセンターのある海洋船舶ビルに着くと、ビルの中には入ってはいけないという。
ビル自体が40年以上経っていて立て替え検討中のビルだけに、今回の地震でどうもヒビが入っているとのこと。
CANPANセンターの皆は無事で、ビルの外に避難も終わっていて胸をなでおろす。
外で少し待っていたが、CANPANセンターの状況と、何より情報が欲しかったのでジリジリしてしまい、余震が来て死んだら死んだで仕方ないとビルの中に入り業務に戻る。
見事にミーティングルームの本棚が倒れていた。
この時、倒れた逆側でミーティングをしていた人がいたが、幸いにも怪我もなく済んだとのこと。本当に幸運だったと思う。
そして、他の人の机は無事なのに、自分の机の周辺だけが震度8になっているのを発見する。。。
とりあえず情報収集しなければならないため、自分の机を片づけて、NHKのUSTを見て愕然とする。
「津波、しかもとんでもない規模・・・」
まるでハリウッド映画のような、非日常的な光景を目の当たりにして、自分の頭の中で、直感としか言いようがないが、「これは阪神淡路の比じゃない災害だ。CANPANとしてしなければならないことを今すぐやらなければ」という閃きが起こった。
それをきっかけに、頭の中でやるべきことが、それこそ津波のように明滅してくると同時に冴えわたってきて、冷静さに拍車がかかった。
こういう時、自分の心は異常に冷静になってくる。つまらない時には容易にパニックになる自分の頭が理路整然としてしまう。
それがいいのか悪いのか、よくわからない。
ただ、自分がやるべきことが見えるという意味で、自分はこの性格が今の仕事には向いているように感じる時がある。
2011.03.11
一時間ほどすると、外にいたCANPANセンターの皆も建物の中に戻ってきた。
まだこの老朽化したビルの中が安全だとはとても言えない状況ながら、外にいるのも安全とも言えないのが、都市の災害というものの恐いところでもある。
まだ退社時間には一時間近くも時間があったが、とりあえず表向きの業務は終了した。ここからは非常時対応の時間となることを覚悟した。
災害が起こってから72時間、それは被災した人を救出する上で最も重要な最初の時間帯だ。
この72時間までの間に、がれきの下敷きになって救助を待つ人などの生存確率は10%程度にまで下がる。つまり、72時間以内、しかもできるだけ早く救出しないと10人に9人は亡くなってしまうのだ。
しかも、天気を見れば、東北は相当な寒さ。しかも津波で濡れている可能性も高いとすれば、水分がさらに熱を奪う。
この夜を乗り切れるかどうかというほどに切迫した状況下で事は推移していると言わざるを得ない。
この間、実は民間レベルで支援できることはほとんど皆無と言っていい。
軍隊(自衛隊)や警察、消防など、専門部隊の作業を邪魔しないことくらいしかできないのだ。
とすれば、自分達が今すべきことは何か?
それは次に来るであろう、市民活動として被災地支援のために多くのNPOやボランティアが活動する資金を調達しておくことだ。
被災地支援は、阪神淡路大震災や中越地震を見ればわかるとおり、国や行政だけでは成り立たず、NPOやボランティアが本当に大変なところを担う。
そして、今回も多額の「義援金」が被災地のために寄付されるだろう。
しかし、この「義援金」は、これら被災者のために必死で活動するNPOやボランティア達には一円も使われないのだ。
それは、皆、長い時間をかけた後、被災者に渡される。
だから、これはこれで必要なお金には違いないのだが、今、困っている被災者のためにはならないという意味で非常に残念な制度なのだ。
だから過酷な環境で支援にあたるNPO達は自腹で被災地に向かうことになる。
それを防ぐための方法、それはCANPANとしてNPOの活動資金となる募金を一刻も早く集めることだ。
ということで、CANPANペイメントを担当するマネージャーの高島さんと相談し、一気に「東北地方太平洋沖地震支援基金」を立ち上げたのである。
2011.02.11
私の実家は茨城県の水戸市にあるが、兄には全く連絡がつかない状態が続いていた。
水戸の隣町にあたる大洗町は津波の被害を受けたようで、心配は募るがどうしようもない。
「今、自分にできることをする」と心を落ち着かせ、パソコンと向き合いながら、自分にできることとして、「CANPANプロジェクトしてやるべきことをとにかくやる」ことだけに努めることにした。
クレジットカード決済によるNPO支援のための基金は立ち上げたが、それだけでは世の中の人に届かない。
そこで、安否確認情報を17時の段階で取り急ぎ載せていたトップ画面の「CANPANニュース」に基金のことも登録、寄付の呼びかけをはじめた。
この安否確認のサイトは非常にシンプルだ。こんな時にはシンプルが第一だが、これがあること自体を被災された方々が知っていることが前提のシステムとなっている。
したがって緊急時で無事の時にはここに登録するということを家族などで決めておくという準備がないとダメなのだ、と今回実は初めて知った。。。
そのため、兄の携帯番号も入れてみたが該当なしと出て、それで不安になるのもどうか、安心もできないし、となんとも言えない気持ちになった。
そんな中、21時頃にTwitterを使って募金の呼びかけを開始した。
23時39分にはCANPANのオフィシャルメルマガである「cocoCANPAN」の緊急配信を行い、基金へのご協力と共に、震災発生からすでに活動を始めていたCANPANプロガーの情報を配信した。
CANPANには、全国の情報発信力に長けた8000を超える団体の方々が登録している。
またそれとほぼ同数のプロガーの方々がいる。
こんな時に、このネットワークはなんと心強いことだろう。
テレビは一切のCMをせず、この震災のニュースを流し続けていた。
千葉ではコスモ石油のガソリンタンクが爆発し炎上している姿が映し出されていた。
それを見ればみるほど、この震災が信じられないほどの規模の災害であること、そのためには日本中のNPOの力が必要になること、そしてその時にCANPANはその一つのコアとして機能することができること、そんなことを玉突きで考えながら、72時間以内に自分たちは何をすべきかを考え続けた。
2010.02.06
続いては、ちょっと甘味系を・・・
中国風蒸しパン「マーラーカオ」
あまり甘くないところがとても好きな逸品である
お店はこちら
続いて、本命の肉まん
いつも食べているところはやめて、新規開拓をしてみた。
こちらのお店の肉まんをいただく
なかなかジューシーで美味しい!
ちなみに中華街で立ち食いする肉まん、正直に言うとどこも大体満足するくらいに美味しい。
つまりハズレはほとんどない。これは、店舗内で食べる場合には必ずしもあてはまらないのだが、屋台系にはかなりの確率で当てはまる。
なので、中華街で肉まんを食べる場合、「より美味しいところはどこか?」ではなく、「より自分好みの肉まんはどこか?」という視点で食べ歩くのがいいと思う。
したがって、ガイドブックなどにはあまり頼らずとも、どこに行くでもなく、フラフラと歩き回って自分的にピンと来たところで食べるのがいい感じである
2010.02.06
横浜のみなとみらいに行く用事があり、横浜中華街に繰り出した
せっかくなので、愛犬のメルの散歩も兼ねていたが、ものすごい人で散歩もままならない状況であった
メルが一緒だとお店には入れないので、立ち食いオンリーで食事を済ますことにした。
普段、横浜中華街に行く場合、室内で食べるので立ち食い系はほとんど食べれない。
立ち食いするのは、横浜港での花火大会の時くらいのような気がする。
まずは、シュウマイ串刺しをいただく。(メルは食べたそう・・・)
タレがしつこくないので、肉の味が引き締まって美味しい
続いて、同じお店の「ニラ饅頭」をいただく。こちらも串系。
ニラの味が小気味良く美味しいが、その分少し肉の風味が消え過ぎな気がする。
肉の味をガッツリ楽しみたいのであれば、ニラ饅頭よりシュウマイのほうがよさそうだ。
こちらの二つは、「横浜大世界」のところにあるこちらのお店で!
2009.11.16
今回の出張を振り返れば、本当に実りの多い出張だった。
一番はやはり、沖縄で地域の活性化のためにがんばる方々とお会いできたことである。
このような出会いの場が作られていくCANPANプロジェクトに自分が関わっていることは至福だといつも思う。
そんなことを考えながら、離島前の最後のお食事をば・・・「沖縄そば」
2009.11.16
沖縄出張で思いきり体調を壊してしまった・・・
二泊三日以上の出張は身体を壊すというマイジンクスは健在であった・・・(要らないジンクスやな、しかし・・・)
そんな中、沖縄みやげに買ってきたものを並べてみる。
三人ともシーサーなのだが、左端のは昔、お土産でもらった手作りのシーサーで、他の二つは「米子焼工房」というところで作られているオリジナルのシーサーである。
これがまたとてもキュートなので、前回沖縄に行った時に一体購入、あとは沖縄に行くたびに一体ずつ買おうと決めたので、今回、もう一体が追加になった。(左端のやつね。)
真ん中のが「ジャスミン」シーサー、左端が今回仲間入りした「ミルクティー」シーサー。
どこがシーサーなんだよって話はあると思うが、こういう夢のある伝統文化の変化は大好きである。
2009.11.14
タコライスを食した後、ちょっと気になったスイーツがあったので、同じお店のこちらを頼んでみた。
■こちらのお店■
http://blog.canpan.info/cosmo/archive/197
沖縄の黒糖を使ったぜんざいである。
味のほうは・・・えー・・・地味すぎ???
2009.11.14
セミナーへの会場入りまで時間があるので、宿泊先のホテルの周辺をぶらぶらとしてみた
国際通りは、那覇と言えばここでしょうと言うくらいの繁華街なので、色々と散策するのはとても楽しい
そこで立ち寄ったのが、沖縄の塩を扱う大手として有名な「塩屋」さん
本店は石垣島で、こちらの店舗は「塩屋平和通り店」。
塩屋さんにはなんとソルトソムリエがいるというから驚きである(笑)
とりあえず、塩を調達したいわけでもなかったが、店内にある物珍しい塩をあれこれと試していたら、とても丁寧に説明してくれる店員さんと話し込み、そのまま店員さんの勧められる塩を衝動買いしてしまった
この人もソムリエの一人だそうだが、塩にも本当に色々あるのだと感心してしまった。
塩というのは、まさに天然の恵みであるが、海に囲まれた日本が輸出できる少ない資源の一つのような気がする。しかもこの高級ラインの塩は世界のグルメ達にも喜んで迎えられそうだ
ぜひ、塩屋さんには海外進出を目論んでもらいたい・・・ってもう海外の有名レストランに卸してたり・・・
昔、ブラジルのサンパウロで買った岩塩が異様に安いのにとても美味しかったのを思い出した。世界には日本に負けない塩が実はたくさんあるのかも。Made in Japan saltは売れるのだろうか。
それはさておき、塩に賞味期限はないと思うが、これを使い切るのはいつになるんだろう・・・
2009.11.14
沖縄の塩を販売するお店の大手として有名な「塩屋」さん。本店が石垣島にあるお店である
その沖縄本島のお店が国際通り沿いにある「塩屋平和通り店」である。
こちらで、今回はとても丁寧な店員さんの勧めるままに色々な塩を買ってみた。
■その記事はこちら■
http://blog.canpan.info/cosmo/archive/192
その店内に「塩ソフト」なるコーナーがあったので、その店員さんにサーブしてもらったのがこちらのソフト
美味しいのだが、ソフトクリームの味的には「うわー!」という美味しさはない
ただ、こちらのソフト、下の写真のように、店内で売られている色々な塩をトッピングして食べることができる
これを試すととても面白いので、ソフトクリーム自体の味に主張が無いのも良いような気がする
これはアイディア的に○なので75点。
2009.11.14
今日は、那覇市NPO活動支援センターが協力し、那覇青年会議所さん主催によって開催される「NPOと企業パートナーシップ in 沖縄」に参加。
この事業は、第58回日本青年会議所全国大会沖縄那覇大会記念事業の一環として行われるとのこと。
分科会を除けば、自分の出番は今日はないため、セミナーをゆっくり聞くことができる。
今回、このような場をコーディネートしたソーシャルデザインファンドの金森さんの講演や沖縄地区でのNPOと企業とのコラボ事例紹介などがある。
沖縄はその地域特性から、NPOと企業のパートナーシップが進んでいるという。
その具体的な事例を聞くことができるのはとても勉強になる。
それにしても、自分の仕事の中で、自分が好きな沖縄に貢献できるというのはとてもうれしいことだ。
CANPANプロジェクトは日本財団の本来業務である助成金を預かるセクションではないので、それとは別のレイヤーでの観光を含めた沖縄活性化に関する事業のお手伝いである。
日本財団が、資金面以外でも地域のお手伝いができるという意義は大きい。
資金は有限だが、アイディアや情報は無限の可能性がある、というCANPANのスタンスそのものでもある。
CANPANプロジェクトの広がり感を感じると同時に、こうした事業や情報の多様性がCANPANの日本をよくする活動のベースなのだということを強く感じる。
写真ではあまりよくわからないが、こちらの建物、沖縄県男女共同参画センター「てぃるる」が入っている建物であるが、ものすごいゴツイ。ほとんど宮崎駿の世界
建物に「三重城」という名前が入っているので、おそらくは沖縄の歴史上に存在する城をモチーフにしていると思うが、それにしてもこのゴツさは一体(笑)
2009.11.14
沖縄料理で何が好きと言われ、ジャンク大好き(寿命短し)の私としてはまずタコライスをあげたい
ということで、ふらりと立ち寄ったタコライスのお店でタコライスとシークワーサージュースを食す
美味い! やっぱり本場のタコライスは違うね、などと思いながら食べていたら、店内の不思議な写真に目が釘付けになる。
それがこちら。
なにやら海の上を竹馬に乗って歩く学生服の皆さん・・・
写真のコメントを見ると「久米島 奥武 竹馬で通学する生徒」とある。
竹馬で通学
なんじゃそりゃ、という話なので、お店の人に聞いてみると、昔、引き潮の時には写真のように通学をしていたのだという。(今はもうやっていないらしい。)
帰りが満潮の場合は、船で帰るとのこと。
この写真は昭和30年代の頃の写真だそうなので、50年ほど前の写真であるが、それにしてもなんというか、すごい通学風景である。竹馬に乗れない生徒は学校にびしょ濡れで行かなければならない。もちろん全くバリアフリーじゃない。
こういう写真を見ると、その頃にノスタルジアを感じる前に、今の時代がいかに恵まれているかを感じてしまう。
人気映画「Always」の時代の犯罪発生率が今と比較にならないくらい高いこと、特に青少年の犯罪率の高さが半端ではないこと、は、せんだいみやぎNPOセンターの加藤さんから教えてもらったことだが、それと同じものを感じると共に、昔は良かったという幻想の危うさに思いが至る。(この話を聞いた後、実際に警察白書を見てみたら、正直その数値に驚いた。)
今、私達が生きているこの時代は決して悪い時代じゃない。
だけど、個人的には竹馬で通学っていうのをしてみたかったかも・・・