私の尊敬する人物の一人に「SCARECROWS」という劇団をやっている上田ボッコという叔父がいる。
この叔父が初めて作から演出までの全てを自分で作り上げた舞台を行うというので観に行った。
題は「丘を越えて(写真の題字は叔母が書いているがいつも見事である)」、主人公は中年の男。
幼少の体験でトラウマを抱えて育った男は家庭を省みず仕事に明け暮れた揚句、息子が妻を殺して自殺、アメリカに留学している娘を除いて孤独になる。そして男は途方に暮れ故郷に戻ってきた・・・というところから始まる物語である。
全体の内容は長くなってしまうから割愛するが、テーマの一つである「絶望の中の希望」をコンシャスとサブコンシャス、現在と過去のきわどい狭間で展開させるストーリーは、古典的ながらも、人間味あふれる叔父のスパイスが効いていて見ごたえのあるものであった。
「絶望の中の希望」と言えば「パンドラの箱」を思い出す人も多いだろう。あの話を初めて読んだ時、パンドラが最後に箱から「希望」を出してしまったことが最も罪深いように自分には思えた。
作者は希望というものを嘲っているんじゃないかと感じるくらい悪意に満ちていた気がする。
この劇では、そんな無意味な悪意は当然無いが、主人公の「親父は毎日毎日この道を『丘を越えて』を唄いながら自転車を漕いで、そんなのは親父の求めていた夢じゃなく、心の中にドロドロした大きな野望を持っていたはずだ。それは何だったんだろう」というようなセリフがあった。
自らも演技者であり、演出家でもある叔父がこのセリフをどのような思いで書いたのか聞いていないからわからないが、とても心に残るセリフだった。
終劇後、叔父に自分がイメージしていた何パーセントくらい表現できたかを聞いたら、「全くダメだなぁ、当日に変えたりすらしてるしね」と少し照れながら言っていた。
ゼロから何かを作り上げる、これは本当に大変なことだ。頭にあるイメージを具現化、つまりこの世に存在させるという行為は、とんでもない才能と努力を必要とする。
それが例え0.1の出来であったとしても、無限大×0=「0」であった時とは違う。「有」はどんなに小さくても「存在する」のであり、その価値はゼロとは比較に値しないほど貴重だ。
それを演劇というさらに困難な分野で実現した叔父はやはり自分にとって尊敬に値する。
60(たぶん)を過ぎてなお、この創造性と行動力、本当に感服である。
CANPANもそうでありたいと思う。今は0.1なのか、それとも0.01か。CANPANはまだまだだ。
しかしCANPANには今、全国から素晴らしい人たちが集まりはじめてくれている。
毎日、その力を感じている。この素晴らしいユーザの皆さんの声を聞きながらCANPANを限りなく「1」に近づけていきたいと、舞台の帰り道に思った。
ちなみにこの叔父は近々CANPANブログでブログをはじめてくれるそうである。
彼の「ドロドロした大きな野望」がCANPANブログで展開されることに希望が膨らむ。