「一即多~すごい時代~」の記事を読んだ方から「なぜ盧舎那仏の写真が?公益と関係が?」という質問をもらったので、拙文の説明不足を恥じて、続編を書くことにした。
タイトルの「一即多」という言葉をご存知の方は「そりゃ盧舎那仏だよね」とつながったと思うのだが、公益との関連性、つまりCANPANブログとの関連性は、かなり飛んでしまっていた。
「一即多」をご存知ない方のために、簡単にお話しすると、「一即多」は華厳宗における思想の表現である。
般若心経の「色即是空 空即是色」をご存知の方は多いと思うが、これの華厳宗版のようなものと、とりあえず考えてもらっていい。
この「一即多」の説明は「米粒」で例えられる。
自分の手の平に一粒の米粒がある。このこと自体は自然の摂理、または宇宙から見たらとても小さい話である。
しかし、米粒がこの手の平に乗るまでには、種を植える人がいて、太陽や雨が恵みを与え、稲となって成長し、それを刈る人や運ぶ人、売る人・・・がいて、そしてようやく自分の手にその米粒が乗ったという、長い長いつながりが隠れている。
この、一つの事象が様々な縁によって紡ぎ出されていること、そして多くの事象は実は一つのつながりを持っていることを「重々無尽の縁起」と言い、これが華厳宗の思想(宇宙論)である。
私はどちらかというと唯物論者に近いので、特に信仰している宗教もない(クリスマスも祝わない)が、この華厳宗の思想には敬服している。
そこで、タイトルを「一即多」とし、まさにCANPANブログで、一人一人のCANPANブロガーの皆さんが何気ない日常を記録するという行為がいかにすごいことか、それが一つのサイトに集まり出していることがすごい力となり得るかを、華厳宗のすぐれた理論をお借りして表現したということでした。
念のため、「盧舎那仏」は、華厳宗のこの宇宙論の象徴。
有名な東大寺の大仏はこの盧舎那仏、東大寺は華厳宗の日本最大の寺院なのです。
東大寺大仏殿は、平重衡(平清盛の五男)と戦国武将松永久秀によって二度焼失。この焼失がなければ、大仏殿は今よりも大きく、また大仏は金色に光り輝いていた。
余談も余談が続くが、金色の大仏にはご利益が無さそう・・・と思わず思ってしまいがちだが、金色に輝いていないと、実は仏としての要件を備えておらず仏と呼べない。したがって金色に輝いていたほうがご利益はある・・・はず。