• 2011.02.11

    東日本大震災当日の話 ~その4~

    私の実家は茨城県の水戸市にあるが、兄には全く連絡がつかない状態が続いていた。
    水戸の隣町にあたる大洗町は津波の被害を受けたようで、心配は募るがどうしようもない。

    「今、自分にできることをする」と心を落ち着かせ、パソコンと向き合いながら、自分にできることとして、「CANPANプロジェクトしてやるべきことをとにかくやる」ことだけに努めることにした。

    クレジットカード決済によるNPO支援のための基金は立ち上げたが、それだけでは世の中の人に届かない。

    そこで、安否確認情報を17時の段階で取り急ぎ載せていたトップ画面の「CANPANニュース」に基金のことも登録、寄付の呼びかけをはじめた。

    この安否確認のサイトは非常にシンプルだ。こんな時にはシンプルが第一だが、これがあること自体を被災された方々が知っていることが前提のシステムとなっている。

    したがって緊急時で無事の時にはここに登録するということを家族などで決めておくという準備がないとダメなのだ、と今回実は初めて知った。。。

    そのため、兄の携帯番号も入れてみたが該当なしと出て、それで不安になるのもどうか、安心もできないし、となんとも言えない気持ちになった。

    そんな中、21時頃にTwitterを使って募金の呼びかけを開始した。

    23時39分にはCANPANのオフィシャルメルマガである「cocoCANPAN」の緊急配信を行い、基金へのご協力と共に、震災発生からすでに活動を始めていたCANPANプロガーの情報を配信した。

    CANPANには、全国の情報発信力に長けた8000を超える団体の方々が登録している。
    またそれとほぼ同数のプロガーの方々がいる。

    こんな時に、このネットワークはなんと心強いことだろう。

    テレビは一切のCMをせず、この震災のニュースを流し続けていた。
    千葉ではコスモ石油のガソリンタンクが爆発し炎上している姿が映し出されていた。

    それを見ればみるほど、この震災が信じられないほどの規模の災害であること、そのためには日本中のNPOの力が必要になること、そしてその時にCANPANはその一つのコアとして機能することができること、そんなことを玉突きで考えながら、72時間以内に自分たちは何をすべきかを考え続けた。